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「ロベルトは真のアーティストであった。(完)」:ロベルトスピッチーノ NO.3

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それ以外でも、残念なことにロベルトとは何の関係もない低価格のシンバルが、彼の名を利用して流通してしまったことがある。中には”SPIZZ”と書かれたものでさえも本物でない場合がある。ロベルトは金策のために”SPIZZ”の称号を売ったことがあるためだ。

本物のスピツキーノ・シンバルには、R. Spizzichinoのロゴが刻印されている。

このロゴだけが、ロベルト自身が製造した証となるのだ。 Wuhanを去った後、Bespeco社はロベルトに再びB20シンバルに取りかかることを許可する。しかし1991年、ロベルトは家族と共にトスカナ州(イタリア中西部)Pescia – ペシアに移り住んだ。彼はその後ずっとペシアに留まり、シンバル作りに没頭する。

彼は全くもって一人きりで作業していた。

助手を雇ったことは一度もない。彼はシンバル製造法を誰からも教わったことがなかったし、また他人に教えたこともなかった。そんなロベルトは、独自の製造方法を数多く実験し、成功させて来た。 その中の一つに、新しいシンバルを古く見せる彼独自の方法があった。調合した化学液の入った桶にシンバルを漬けるのだ。彼の工場を訪れた者がその桶を見つけて、いったい何の液体を使っているのかを訊ねると、彼は

「イタリアのベストなオリーヴオイルと、ベストなイタリアン・ワイン、それに動物の死骸を2体ほど入れるんだ」

と言っていた。もちろん彼は冗談のつもりだが、人によっては彼が本当のことを言っていると思ったようだ。彼は常に冗談を言っていた。いつもユーモアたっぷりで、彼の周りでは笑いが耐えなかった。 ロベルトの工房は、ペシア近郊の山中にある鉄鋼工場の一角にあった。その鉄鋼工場では金属パイプから金属の箱、または装飾品まで、何でも製造していた。ロベルトはそこの従業員ではなかったのだが、彼は工場のオーナーと話をして、その一角を使わせてもらっていたのだ。しかし彼の仕事場の環境は劣悪だった。冬には暖をとるストーブもなく、夏にはエアコンなどもちろんなかった。トイレも水洗トイレではなかった。しかし、そういった環境にも関わらず、ロベルトはシンバルを作る場所があることに日々感謝していた。

彼はとてもシンプルな性格で、優しく、他人に対して慈愛に溢れていた(特にドラマーには)。

彼は新しい車になど興味はなく、豪邸にも興味なく、とにかく物質的な欲望のない男だった。彼はジャズとクラシック音楽をこよなく愛し、演奏もまた熟練であった。彼は一枚のシンバルからいろんな音色を奏でだすことができる表現力の溢れるプレイヤーだったのだ。彼はシンバルのスウィート・スポットをいくつも見つけ出し、演奏に取り入れるのが得意だった。 やがてロベルトの長年の献身と貢献が、広くミュージシャンや大手のシンバル会社から認められようになる。彼のクラシカル・シンバルは世界有数のオーケストラにて使用されるようになり、彼のジャス・シンバルは世界中のプロミュージシャンから探し求められる逸品となった。 またかなり少数ではあるが、ロベルトは、スネアドラムと、ドラムセットの製造も行なった。彼が素材に選んだのはブラス、コッパー、ステンレス・スチール、アルミニウム、そして木製のスネアも数台。そのすべてが、ロベルト一人の手で作り上げられたものだ。

世界中のプレイヤーやコレクターが関心を寄せる逸品だ。 リー・ラフは親友ロベルトをこう讃える。 セイント・フランシス(イタリアのカトリック教会の中で最も崇拝される牧師)の言葉を引用すると、「体を使って働く人は労働者だ。そこに頭も一緒に使う人は職人だ。

そして頭と体と、そこに心も一緒に使う人はアーティストなのだ」

ロベルトは真のアーティストであった。(完)

 

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About the author

MIKI DRUM CENTER 店長 上原 貴生 高校1年生の1980年代バンドブームの時、ドラムセットに魅了されドラムをはじめる。 その後、大学進学後もオリジナルバンドを中心にFUNK MUSICに傾倒。 ドラム、音楽をきっかけに、人と知り合い、音楽について熱く語りあうことが好きで、三木楽器に入社。 2009年より、大阪梅田にドラム・打楽器専門店MIKI DRUM CENERTオープン。 現在も、千里モータウンのドラマーとしてプレイ。

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